2005年11月10日

副キャプテン

前回の続きです。

2003年4月

2月のチーム始動から2ヶ月、監督が正副のキャプテンを指名した。
キャプテンの決め方は、チームによって色々有ると思う。


1.選手同士が話し合って決める。
2.選手が全員投票して決める。
3.監督が指名する。


この時のチームは、3の監督の指名で決まる事になる。

是非の判断は難しく、どれが善い方法かは一概には言えない。
ただこの時は5年生以下のBチームなので、
監督が決めたほうが丸く収まるのかもしれない。

まだ子供なので選手同士の好き嫌いや、キャプテンとしての適正の見極めが、
子供達だけで決めるのが難しいのかもしれない。

そうは言っても大体の予想はつくもの。
ゲンジは副キャプテンを言い渡された。

これはこちらの予想通り。このメンバーの中では入部が一番古いのがゲンジだが
その後に入った同学年の子がキャプテンとなった。
この子は強烈なリーダーシップを発揮する子で、まさに適任と周囲も認めていた。

ゲンジはその子の補佐的役目となる。
ちなみにキャプテンのポジションはキャッチャー。
正副のキャプテンでバッテリーを組む事になる。


他のポジションも、練習で大まかな見当がついたが
いきなり公式戦では不安があるのも事実。
そこで公式戦の前週に練習試合を2試合組む事になった。

この練習試合でチームとしてどれだけ機能するか?
なるべく多くの選手を、色んなポジションで起用して
どれが最適なオーダーか? それを見極める良い機会となる。

投手争いのほうだが、この時点では4年生のC君が主戦を任されそう。
ボールのスピードとマウンド捌きでは、ゲンジより上回っていた。
体格ではゲンジが上回るのだが・・


そして練習試合の当日、ゲンジは2試合目の先発を言い渡される。
1試合目はショートで先発。

記念すべき新チームの初戦。この試合は壮絶な打ち合いとなった。

続きは後日

2005年11月03日

5年生へ進級

2003年4月

少年野球に入団してから、丸2年が過ぎた2003年4月に
息子ゲンジは5年生に進級した。

外はもう雪は消え、少しづつ陽気が暖かくなっていた。
長い冬の期間は、なかなか外での練習は叶わなかったが、
3月下旬頃よりようやくグランドが使用出来る。

この年のチーム構成はAチーム・Bチームの2チーム体制。
Aチームはオール6年生で17人。新加入メンバー無し。

Bチームはこの年からの新加入が数名おり、
5年生12人 4年生8人 3年生は0名で2年生が1人の計21名の布陣。

指導者は両チーム共に、監督1名 コーチ2名で合計6名の陣容。
この年のドラ夫はチーム運営の役職は無く、遊軍として後方支援の形。
塁審や練習時の手伝い等で、チームを裏から支える役目。

この年は、2エントリーの可能な大会は極力2チームで参戦する方向。
A・Bの指導者が、それぞれのチームにかなり期待をしていた。

実はこの学童野球クラブ、ゲンジが入団した前のシーズンは、
出場した14個の大会で、決勝進出が12度。という凄い実績を残していた。

ところがその翌年は優勝回数は激減となり、
更に翌年の2002年シーズンは、ついに決勝進出ゼロにまで落ち込んだ。

たったの2シーズンで頂点からドン底へ・・・
学年による選手数の格差があったのも要因の一つだった。
確かに前年の6年生は7人だったし、この年の3年生に至ってはゼロだ。

だがこの年は違った。6年生だけで17人。
いわゆる『ゴールデン・エイジ』の世代で、能力の差もあまり無く、
Aチームの監督も、チームの復権に手応えを感じていた。

Bチームも人数的には申し分なく、この年の経験を来年につなげたい所。
それ故の2チームエントリーの推進だった。

それぞれのチームが、それぞれの目標に向けて始まった2003年シーズン。
ゲンジもピッチャーとしてどこまでやれるか?

この年最初の大会を控えた頃、監督が主将と副主将を発表した。

続きは後日。

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