2010年02月15日

組み合わせ抽選の思い出

ゲンジが小学6年生の秋。
近隣チームが『創立○○周年』を迎え、その記念大会に招待された。

12チームが出場。4つのリーグに分けて、3チームづつで総当りを行い、
1位のチーム4つで準決勝を行う。

このリーグ分け、実は大会当日に行われました。
この年は7月まで白星に恵まれず、苦しい戦いが続いていた。

秋になりようやく調子が上向いてきたところ。
ただ春先に初戦負けを重ねていたので、
上に繋がる大会には縁が無かった。

多くのローカル大会もありましたが、
戦う相手はいつも同じ地域のチームばかり。

この記念大会、他地域からの招待が多かった。
自チームを除く11チーム中、対戦機会の無かったチームが9チーム。

普段、あまり顔を合わせる機会のないチームとの対戦が濃厚。
この点でも楽しみにしていた大会でした。

当日。組み分けの抽選にはゲンジが出る事に。
主将の子は親類の冠婚葬祭でこの大会は欠場。
副主将のゲンジが主将代行になりました。

抽選には私と監督も同行。そして・・

運命のイタズラなんでしょうね。前述の9チームとは同じ組にならず、
なんと対戦機会のある2チームと同じリーグに (~_~;)
11チームで9なのに、残りの2チームと一緒。

よりによって・・ という感じでしたね。
相手もきっと同じ想いだったことでしょう。
クジをひいたのがゲンジだけに、私も何も言えなかった^^

こうなればリーグを勝ち抜き、準決勝に進みたい。
しかし1勝1敗・・ 負けた試合は0対1の惜敗・・
予選敗退でこの大会を終えました。

抽選といえば、高校野球の夏の大会も選手がクジを引く。
色んな考えがあるでしょうが、
今年に関しては一つでも多く勝てる組み合わせが望み (^_^;)

初戦から強豪相手はちょっと勘弁してほしいなぁ^^
春の大会でシード権を得るのが一番ですが、
うちの実力ではそれも厳しいのが本当のところ。

神頼みになりますが、本番では良いクジを引き当ててほしいもの。
実力を上げるのも勿論大切なんですがね^^

2010年02月05日

選手宣誓の思い出

中学2年の中体連が終了後、主将に指名されたゲンジ。
翌年の3年生時、春のローカル大会での出来事。

部活の大会でしたので、顧問が抽選に出掛けた。
1番クジを引き当てた学校が選手宣誓の大任^^

そして見事? その1番クジを当てた顧問。
ゲンジに宣誓の役目がまわってきたんです (^_^;)

私は栄誉な事ですし、とても嬉しかったのですが、
当の本人は大ショックのようでした^^
はっきり『嫌だなぁ・・・』 と乗り気ではありません。

まぁあの性格ですからね。そういうのには向いてないのかも^^
しかし決まった事ですから、従うしかありません。

翌日から宣誓の文面を考えたり、実際に声を出して練習したり。
それなりに準備をしていたんですよ。
私も楽しみにしていたのですが・・・

大会当日、天気はあいにくの雨。。。
大会は翌週に延期となりました。
そして翌週は会場手配の都合上、開会式は行わないという連絡が。

かくして選手宣誓は幻に終わったんです・・・
私はとても残念でした。田舎のローカル大会とはいえ、晴れ姿ですからね。
ゲンジは内心、ホッとしたことでしょう^^

最初で最後のチャンスだったかな? なんて思ったりして、
まぁ過ぎた事は早く忘れよう。そう自分に言い聞かせていました。

時は過ぎて・・

中体連の敗戦後、硬式スクールに4ヶ月お世話になった。
そして11月中旬、軟式クラブの最後の大会がありました。

この大会、当初は1・2年生の新チームで参加予定でした。
しかし3年生にも参加資格があり、諸般の事情で3年生も参加する事に。

4ヶ月前のメンバーが再び勢揃い。最後の大会に臨んだ。
結果的にその大会は優勝する事が出来ました。その時のエントリは↓
http://syounenyakyu20.seesaa.net/article/67387651.html

実はこの大会、選手宣誓はゲンジだったんです^^
2年生の新主将がこの役目を受けるのが筋。
私はそう思ってこの話を辞退する意向でした。

しかし前述の、幻に終わった選手宣誓の件。
この話を会長から言われて、また新主将も是非ゲンジ先輩に!
という事でしたので、敢えてこの申し出を受けることに。

こうして思いがけない形で、諦めていた宣誓の姿を見る事が出来た^^
どんな台詞だったのか、もう忘れてしまいましたが、
ハキハキと大きな声だったのは覚えています^^

高校野球では夏の県予選の時しか宣誓のチャンスはありません。
もとよりゲンジは、今は主将ではありませんから、絶対に当たりません^^

なのでこの時の宣誓が生涯で最後の経験だった。
ちなみに私自身も、中学3年の時に選手宣誓の経験があるんです。
開き直っていて、特に緊張はしませんでした (^_^;)

自分の事、息子の事、共に良い思い出です。




2010年02月03日

ナイター試合の思い出

10年目の野球シーズンを控えているゲンジ。
この9年、一体何試合出場したのか?
かなりの数になる事でしょう。

そのほとんどを観戦してきた私ですが、
試合は日中に行われるのがほとんど。
しかし1試合だけ、ナイター試合を体験しました。

あれは6年生の最終試合でした。
予選リーグを勝ち上がると準決勝進出。
この最終戦、得失点の関係で大差勝ちが必要。

しかし相手は難敵・・ かなり厳しい状況でした。
その日は専用スタジアムで5試合が組まれており、私達はその5試合目。

季節は秋も深まった11月の中旬に差し掛かろうとしていた頃。
はじめからナイター試合が予想されていました。

結果次第ではこれが小学校最後の試合。
なんとか1日でも長く、この子達と野球がしたい。
スコアラーだった私は祈るような想いでした。

また個人記録では、ゲンジもライバルと熾烈な首位打者争いをしており、
こちらの結果にも注目や関心が高まった。

ずっと4番を守ってきたゲンジでしたが、何故かこの日は5番。
俊足で小技のきく選手を2番に抜擢したため、
以降の打順がズレた。特に他意はない起用でしょう。

選手達もナイターを予想していたのか、なんだか喜んでいる^^
まだ微かな希望がある状況。消化試合ではないので、
その辺りの気も引き締めなければならない・・

薄暗くなりはじめた夕刻前にプレイボール。
初回、連続安打でチャンスを迎えた。6番のタイムリーで先制点を奪う。
その裏に早くも同点に追いつかれたが、2回の攻撃。

相手投手が突如の乱調。連続四死球を得て大量得点のチャンス。
ところが拙攻が続き、この回は2得点。大量得点差が準決勝進出には必要。
悔やまれる攻撃でした。

そしていよいよ、この回から照明が点灯された。
カクテル光線を浴びた選手達、自然に笑みがこぼれている。
リラックスしてプレーしてほしいところ。

3回、ゲンジのヒットなどで1点を追加。4対1とリード。
しかし・・ ここから気温が急激に低下・・

ベンチで上着を着ていても凍えるほどの寒さが襲ってきた。
晩秋も深まる当地、11月中旬の夕刻は冬と同じようなもの。
まして太陽は既に沈んでいる。かなり厳しいコンディションとなった。

ただ相手も同じ条件。どちらが集中力を持続出来るかがポイント。
しかし・・ 寒さで身体が硬直し、悪送球を連発したのは私達のチーム・・

自滅に近い形で逆転を許し、そのまま終わった。
最終回、1死1塁でゲンジの最後の打席。
結果はショートゴロでした。

数人の6年生は涙を流していた。私も貰い泣き。
4年間の学童野球生活が終わった。

普通ならその後に反省会ですが、なにしろ冷え込みが増して、
そちらの面で感傷に浸っている余裕がなかった (~_~;)
足早に皆がクルマに乗り込み、帰路につきました。

プロの試合が行われた事もある球場で試合が出来た。
それだけでも感激なのに、ナイターまで体験出来たのは良い思い出。

勝っていれば余計に嬉しかったですが、とにかくあの時の寒さは堪えた・・
今のところ、これがゲンジの唯一のナイター試合。

ナイター試合を経験された方、おられますか?^^
普段とは感覚が違うので、特に守備では苦労するかもしれません。
当地でも昨年の夏の予選、いくつかナイター突入の試合がありました。

ひょっとしたら、今年もそんな体験が出来るかもしれません。
まぁ夏なので、逆に涼しくて歓迎かもしれませんけど^^



2010年01月31日

サッカーをさせていたかもしれない (^_^;)

今から9年前の2001年2月。
小学校2年生の冬にゲンジは地元の学童野球に入団しました。

当時の経緯や取組みは、【我が子レギュラー化計画・3年〜4年の頃】のカテゴリに綴ってあります。
http://syounenyakyu20.seesaa.net/category/235595-1.html

当時のゲンジは引っ込み思案で臆病な性格でした。
自分の意志を示す事もなく、いつも母親に甘えてばかり・・

ただ持久力は人並み以上にあり、学校でのマラソン大会では、
1年生と2年生の時に連覇。
今は鈍足の部類ですが、当時は短距離も速くてリレーの選手にも選ばれていた。

男の子として、もっと逞しく育てたい。
そう思っていた私は、ゲンジに何かスポーツをさせたいと考えていました。

この事に奥さんも異論はなく、本人の希望とも相談し、
どんなスポーツをさせようか? あれこれ考えていたんです。

私自身が格闘技をしていた事もあり、最初は剣道や柔道を
と思ったのですが、これには奥さんが反対 (^_^;)

そこでサッカーをさせてみたい。そう思ったんです。
1993年生まれのゲンジ。ちょうどこの年にサッカーのJリーグが始まった。

94年のワールドカップ予選も盛り上がっており、
日本中がサッカーブームに湧いていた頃です。

私も名古屋グランパスのサポーターでして、
関東圏で行われる試合には、頻繁に足を運んでいました。

勿論、プロ野球や高校野球にも関心はありましたが、
それよりもサッカーのほうに熱が高まっていました。

私は背が高いのもあって、高校の授業ではゴールキーパーを多く務めてました。
お世辞もあったのかもしれませんが、なかなか評判が良かったんです (^_^;)
反応もまずまずでして、その影響か一番注目して見ていたポジションはキーパー。

いつしかそれが我が子にも向けられて、ゲンジにキーパーをさせてみたい。
そう思うようになってしまいました。

ゲンジ本人も感触が良く、サッカーチームに入団する障害はありません。
ただ通っていた学校にサッカーチームがなく、
入るとしたら隣の小学校のチーム。

この点だけが不安要素でしたが、あれこれ聞き込みを行い
受け入れには問題ないとの事でした。

父子揃ってサッカーで盛り上がっていたのですが・・

それとは知らずにうちの奥さん、野球道具を一式譲り受けてきた (~_~;)

親しい友人のお子さんがその時に6年生。
中学入学を目前に控えていた頃です。
その子は野球をしていたので、不要になった用品が沢山あった。

『全部渡すから、野球をさせない?』 こう言われて奥さんは即決。
なんと入団の申込書まで貰ってきた^^

グローブにバット、練習用のユニフォーム、アンダーシャツ。
全て中古とはいえ、一式揃えるとそれなりの金額になりますよね。

またズラリと並べられた用品を見て、当のゲンジも大喜び^^
サッカーの話はどこへやら・・ 

こうしてゲンジの野球人生がスタートしたわけです。
動機は単純ですが、この時の経緯があって今がある。
そう思うと、なんとも不思議な成り行きですね。

その後は紆余曲折があり、初安打が出るまで1年半もかかりました。
なんとか上達させたい想いで必死でしたね。
今でこそ笑って振り返ってますが、当時はもう胃が痛くなるほどで (~_~;)

そんな子も今は元気に成長し、それなりに周囲から期待される立場になった。
人生のアヤは、どこに転がっているのか分からないものです^^

私は今、フットサルのチームからキーパーとして勧誘されているんです^^
ゲンジの夏の大会が終わるまでは保留ですが、
それが終わったらじっくり考えてみたい。
新しい楽しみも見つけないといけませんからねぇ ^^;

ただ身体が思うように動くのか? そこだけが心配ですね^^



2010年01月27日

あれから17年

1月はゲンジの誕生日がある月。17歳になりました。

なんというか、月並みな言葉になりますが、
月日が過ぎるのは早いものですねぇ・・・

今日はゲンジの誕生秘話を一つ (^_^;)

奥さんがお世話になった産婦人科は、産む前に男の子か女の子、
どちらが生まれるか? 希望者には教えてくれるところだったんです。

第一子だった長女の時は事前に女の子だと知らされた。
そしてゲンジがお腹にいる時も、実は女の子だと言われていたんです。

私の本音は少々落ち込みましたね ^^;
やはり男の子が欲しかったのもありまして・・

でもそれを言っても仕方がありません。
娘2人の父親かぁ・・ と最後は開き直ってました^^
子供は2人。そう当時は決めていましたし。

女の子用の服も用意し、名前も既に決めていました。
ところが2歳だった娘が、母親のお腹に口をあてて、
『ゲンちゃん 早く生まれておいで!』

何故か娘はお腹の赤ちゃんの事を「ゲンちゃん」 と呼んでいるんです^^
私達が 『まだ男の子か女の子か、分からないんだよ』
と言いましても、『絶対にゲンちゃんだよ 男の子だよ!』と言い張る娘。

どうしてゲンちゃんなのか? その辺りの事はよく分かりません。
絵本かテレビの影響でしょうか、とにかく娘はずっとお腹の赤ちゃんを
ゲンちゃんと呼び続けていたんです^^

ただこちらとしても、女の子にゲンちゃんという名前は付けられません (~_~;)
まさか『ゲン子』 なんて名前もねぇ^^

『女の子が生まれたら、娘もきっと理解出来る。その時にキチンと言い聞かせよう』
 
そして出産当日。私は仕事の都合で立ち会う事は出来ませんでした。
お昼頃に無事に生まれたという連絡は貰いました。
夕方に勤務を終えて、急いで病院へ。

廊下で義母がニコニコ笑っていた。
隣で娘が、『パパ! ゲンちゃんが生まれたよ!』と喜んでいる。

参ったなぁ 名前の件、どう説明すればいいのやら と私も苦笑い。
そして母子と対面・・・

なんと男の子でした。 嬉しい誤算というか、なんというか。。。
とにかく嬉しかったですね。一度は諦めていた男の子が生まれたなんて。

同時に人騒がせな産婦人科に少し腹が立ったり (^_^;)

こうして誕生したゲンジ。娘はずっと『ゲンちゃん』と呼んでいる。
以前、私が中日ドラゴンズの郭源治選手から名前を頂戴したと書きました。

そうなんです。私は男の子が生まれたら郭選手の名前を付けたかった。
偶然、娘がゲンちゃんと呼んでいた。
もうゲンジという名前しか、付ける名前はないですよね^^

これも何かの縁というか、巡りあわせというのか。

あれからもう17年。誕生日が来る度に、我が家ではこの時の経緯が話題になる。

名付け親の娘も、弟の事は親しい友人には自慢している^^
ゲンジも姉の言う事には従順で、喧嘩は全くしません。

2人が巣立つまで後数年でしょう。それを思うと寂しいもんです・・
孫が生まれたら、また野球をさせたいですね。

私も当然、ステージ爺ちゃんになりそうです^^

2010年01月19日

高校時代の苦い思い出

野球もシーズンオフですから、ブログネタも少なくて困ります (^_^;)

かなり昔の話になりますが、私が高校生だった頃、
冬のオフで今でも後悔している事があるんです・・

プロフィールのところにも書いてあるのですが、
私は中学3年生の時に、某格闘技で県大会の個人戦で2位になりました。

当初は高校でその種目を続けるつもりはありませんでしたが、
各方面から色々なお話を戴き、結局は続ける事に。

入学して半月後、春の県大会がありました。
私はその大会の中量級でいきなり3位。
入学したばかりの1年生が、2・3年生達を相手にこの成績。

周囲はとても驚きましたし、自分にも注目や期待を背負っている実感がわいた。
その勢いでインターハイ予選では団体戦メンバーにも抜擢。
県大会優勝を果たし。東海大会でも団体戦3位。

この時は自分でも勢いを感じましたし、
正直、一部のライバルを除いて同学年の選手は眼中になかったです。

でもそんな慢心が、今から思えば間違いのもとでした・・
秋の大会も順調な成績を残し、惜しくも国体のメンバーからは漏れましたが、
自分でも手応えを感じた1年でした。

そして最初に迎えたオフシーズン・・
私は右足の親指を練習中に骨折してしまう。

周囲とは別メニューで、主に上半身を鍛えるトレーニング。
しかしこの時から、どこかでサボり癖がついてきた・・

一つ上の2年生は人数が少なかった事もあり、
また顧問もこの時は進路指導で多忙な時期。
部活に顔を出す機会も減っていたんです。

次第に部活全体がダラけた雰囲気に。
私自身も初年度の成績に天狗になっていたんですね。
追い込むような練習には程遠く、手抜きのオンパレード。

一度怠け癖がつくと、容易に元には戻れない。
心のどこかに、『これでも自分は勝てるさ』 という気持ちが支配していた。

2年生になり、最初の大会は惨敗でした。
前年までは余裕で勝てていた他校の同学年にも、
私はすっかり勝てなくなってしまったんです。

自分は向上どころか停滞。相手達は驚くほど力を伸ばしている。
気がついた時は既に遅い。情けなくて、悔しくて・・
オフの慢心に原因があった事に疑いの余地はない。

私は遅れを挽回しようと必死に練習に取り組みましたが、
結局この年はインターハイ出場も逃し、国体にも選ばれる事が出来なかった。

このままでは終われない。そう決意して挑んだ2年生のオフ。
前年とはうって変わり、猛練習に明け暮れました。

最後のシーズンは3度の全国大会に出場。
そのうち2度は個人戦で優秀選手賞を頂戴し、一度はベスト16入り。

オフの取組みが無駄にならず、復活出来たことが嬉しかったです。

長くなりましたが、私はこうした苦い経験がありまして・・
ゲンジにも毎年オフに入る前にはこの話を聞かせています。

今は打てる相手投手でも、冬を越したら手も足も出ないかもしれない。
なので自分の打撃レベルも上げておかないと、対等には戦えないぞ!
とハッパをかけているのですが^^

成長期でもありますし、短い期間でグンと伸びる世代。
だからこそオフの練習は大事なんです。

私はこの時の事を今でも非常に後悔しています。
ゲンジにはこのような想いをさせたくありませんから、
つい世話を焼いてしまうのですが (~_~;)

これを読んで身に覚えのある現役選手の方、
今からでも遅くありません。気持ちを新たにスタートしましょう^^





2009年02月27日

涙の3塁打

過去を振り返る 『今だから言えること・・』

第6話 涙の3塁打



ゲンジが中学3年の6月だった時の話です。

最後の大一番、部活の中体連を1週間後に控えてた。
3年生のB君はレフトのレギュラー。

中学に入ってから野球を始めた子でした。
入学当初は少年野球経験組と比較すると、色んな面で見劣りしていた。

しかし2年生になると少しづつ上達してゆき、
有望な下級生達とレギュラーの座を争うまでに成長する。

そして2年生の新人戦ではついに一桁の背番号をゲットした。
打率は正直低かったです ^_^; 三振の数も多い。。。

しかしB君は【意外性の男】 でした。
三振か長打か? という感じでしょうか。
監督はこのB君を主に6番・レフトで起用していました。

しかし・・ B君は中体連の数日前に、走塁練習で足を故障してしまう・・
松葉杖の世話にならないと歩けない有様・・
当然ながら中体連は絶望視されました。

初戦は優勝候補を完璧な内容で撃破。番狂わせを演じた。
これにより、第2戦は一週間後となった。

B君は猛烈に出場を直訴しました。
しかし足の状態は完璧ではありませんでした。

3年生ですし、最後の大会。出したい気持ちは私もありました。
けれど、次の試合は上部大会進出が懸かった大一番。
絶対に勝ちたい試合。そこに温情でB君を起用する余裕はありませんでした。

2戦目。 リードされたまま最終回の2アウト。
顧問は代打にB君を起用。しかし三振でゲームセット。
B君は1打席で中体連を終えた。

ゲンジをはじめ、多くの3年生はこの敗戦後は硬式スクールに移籍した。
だがB君はそのまま軟式のクラブチームに残りました。
秋にある、大規模ローカル大会に照準を合わせたのです。

この大会は3年生にも出場資格がある。
私は複雑な気持ちでした・・・

B君はこの時、高校野球志望でした。
それなら軟式は一旦止めて、硬式に移ったほうが少しは有利。
そもそも硬式スクールは、高校へのステップとして出来たもの。

また軟式クラブも、本音は1・2年生の新チームで挑みたいのが本音だったと思う。
そこに3年生が加わるのは、何かと不都合も生じる。

私はこれらの事をB君に話ました。
しかしB君の返答は・・

『中体連の前に怪我をしたのが悔しい・・』
『その鬱憤を今度の大会で晴らしたい』

そうと決まれば、もうB君を応援するしかない。
硬式スクールに勧誘するのは諦め、
また軟式クラブの新監督にも、私からB君の事をお願いした。

監督は快く引き受けてくれました。

2ヶ月後・・

B君は3年生唯一、大規模大会に登録。
初戦はレフトのスタメンで出場でしたが・・
攻守ともに冴えず、見せ場を作る事が出来ませんでした。

2回戦は辛うじてスタメンになるも、打順は9番。
唯一の3年生で9番。もう後がありません。

最初の打席は凡退・・ そして2打席目。
ここで凡退なら、次のイニングから交代も予想された。
場面はランナー 1・2塁。

中体連の無念は皆が知っている。スタンドの父兄達も大声援を送った!
私も心の中で祈り続けました。

初球、バットが一閃した! レフトポール際へグングン伸びる!
ライナーの打球はワンバンでフェンスへ!
2者が生還。タイムリー3塁打でした。

3塁のベース上で雄叫びをあげるB・・・ そしてガッツポーズ。
見事でした。怨念を自分の手で取り除きました。

彼は泣いていました。彼の母も泣いてました。
勿論、私も泣きました・・・・・

そのB君。今も高校の野球部に在籍しています。
レギュラー目指して頑張っているようです^^

2009年02月19日

復活したエース

過去を振り返る 『今だから言えること・・』

第5話 復活したエース



中学軟式の時のエース君の話です。

彼をA君とします。
A君は小学校4年生から野球を始めました。

当時から身長が高く、遠投や短距離走も群を抜いていました。
彼が6年生になった時、自分からピッチャーをやりたいと言いました。

前年の5年生の時は、うちのゲンジが投手候補としてマウンドに上がっていた。
いってみれば、それと入れ替わるような形ですね。

球のスピードも速く、周囲も期待していました。
日頃は明るい性格で、挨拶もしっかり出来る子です。

ただ父親がコーチとして指導者の一角に入っていたのですが、
この父親には反抗心というか、まぁこれはどこの子でも有ると思います (^_^;)

中学に入っても、次期エース候補として育成する方針。
この子の球を受けるために、ゲンジがキャッチャーに指名されたようなものです。

1年の夏から登板の機会を与えられていました。

2年生の夏からは背番号1番を与えられた。
だがその頃、ちょっと伸び悩みを感じていました。

球のスピードが「打ち頃」になってしまったんです。
小学生の頃は速かったのですが、そこからの伸びしろが少なかった。

2年夏の公式戦で、つるべ打ちを喰らってしまいました。
試合後、小言を言った父親に対し暴言を吐いてしまう・・

それを見ていた監督、次の試合から背番号1を剥奪しました。

『技術面でもそうですが、まずは精神面でも進歩しないと、とても1番を付けさせる事は出来ない。』
と私にはこう言われました。

そして迎えた部活の新人戦。その舞台で彼はマウンドに立つ事は出来なかった。
1年生の投手に任せたのですが、結果はコールド負け。

私も見ていて歯痒かったです。
大事な新人戦にエースが投げさせてもらえない・・

以降の練習試合でも、監督は徹底してA君に登板の機会を与えませんでした。
1日3試合のトリプルヘッダーでも投げさせてもらえない・・

A君もかなり堪えたと思います。ひょっとしたら辞めていたかもしれないですね。

それから一ヶ月後の交流戦。1年生投手が試合中に怪我をするアクシデント。
監督はリリーフにA君を指名しました。

スコアラーとしてベンチ入りしていた私、A君に激を飛ばしました。
だが結果は無残・・ 連打の末に最後は柵越え本塁打を浴びた・・

『Aのピッチャーは終わったな・・』 横で監督がこうつぶやきました。

つい1年前はかなりの期待を背負っていたのに・・
私は心に誓いました。A君を必ず再生させると。

私はA君用に練習プログラムを作りました。
『お前、このままで終わるつもりか?』 と問いかけますと、
本人はハッキリした声で 『終わりません!』

『だったらこのメニューを毎日必ず実行しろ。』
内容は割愛しますが、私なりに見た彼の弱点修正がメイン。
後はどこまで彼が真剣に行動するか?・・


冬が終わって3年生の4月上旬。最初の練習試合が組まれた。
この日は部活の試合。2試合の予定。

顧問が私のところに歩み寄る・・
『1試合目、Aで行きますか?』

『新年度最初の試合。3年生のAで行きましょう』 私は言った。

そしてAを呼んで言いました。
『冬の成果を見せてみろ。勝敗は問わない。あくまで内容だぞ。気負うなよ。キレるなよ。精神面での成長も必要なんだからな。』

試合は1対2で負けました。でもA君の投球内容はとても良かった。
試合後、私はA君に抱きついて褒めてやりました。
A君はボロボロと泣いてました・・・

負けましたが、自分なりに手応えを感じたのでしょう。
1週間後、横浜への道となる全日本選手権の予選。
マウンドには背番号1を付けたA君が立っていました。

以降、中体連まで彼は1番を背負い続けました。
見事な復活を成し遂げました。





2009年02月06日

怒号系指導者

過去を振り返る 『今だから言えること・・』

第4話 怒号系指導者




ゲンジが学童野球の世界に入ったのは小学2年の冬。

春になり3年生になった時、4年生主体のBチームの一員でした。
この時の指導スタッフは3人。全て保護者が指導者でした。

うちのチームはこうした保護者指導者が一般的です。
3人の指導者、タイプで言うと3人共が怒号系でした。

コーチの一人が幾分穏やかな面がありましたが、
もう一人のコーチと監督は、かなり熱いタイプ。

当時の4年生は人数が多く、私が見ても有望な選手が沢山いた。
しかしあまりの怒号指導に嫌気をいさしていた子も見受けられた・・

保護者の一人が、『このままでは野球を嫌いになってしまう』
と指導者達に意見しましたが、そんな言葉に耳を傾けることもなかった。

私が見ていて感じたのは、彼らは子供を褒めない。
これがいけません。怒ってばかりいて、
良いプレーをして当たり前。こんな感じなんです。

子供は褒めてあげないと伸びない。これは私の持論です。
ムチばかりではいけない。時にはアメも必要。

当時のゲンジは1学年下 という事もあり、怒鳴られる事はありませんでした。
まぁ期待されていなかった。というのもあると思います。

翌年、ゲンジが4年生になった時、この年は5年生と6年生がAチーム。
前述の3人の指導者がそのまま残留。

新たにBチームは新スタッフが組閣され、
私達親子はそちらへいく。怒号系指導者とは1年の付き合いでした。

そのAチーム、覇気が無く成績もふるいませんでした・・
とくにチームワークが悪かった・・

指導者の子供達が浮いていたんです。
実力はありました。エコひいきでレギュラーになったわけではありません。

でも他のメンバーが、彼らを敬遠していたというか・・
親の怒号のせいで・・ とは言いたくありませんが、それが根底にあったのは事実だと思う。

子供にしてみれば、いい迷惑だったかもしれません。
結局この学年は、中学で野球を続けたのが半数でした。

有望な子が多かっただけに残念・・
そして指導者の子供3人も、一人は中学の途中で退部。

もう一人は高校入学時に他の競技へ。
そしてもう一人は高校入学直後に野球部を退部。

親があれだけ熱く、かなり息子にも期待していたのでしょうが、
3人とも途中で野球から去る形になりました。

私にとってもいい勉強になりました。
子供は叱ってばかりじゃ伸びない。

以降、私も6年生の時はコーチの末席に加わり、
中学軟式でも役員として練習の手伝いに関わった。

手を抜いたり、ふざけた態度の子は厳しく叱りました。
その代わり、模範的な行動をした子は思い切り皆の前で褒めました。
そうする事により、選手も善悪の区別がつくものです。

さて怒号系の指導者ですが、中学クラブでも頻繁に顔を出してくれて、
選手の指導も行ってくれました。

しかし・・
選手はもう内心は相手にしてない。 そんな素振りでしたね。
中学生にもなると、要領を掴んでいるんでしょう。

中学・高校では厳しい指導も有りかもしれませんが、
学童野球では考えものかもしれない。

怒られてばかりじゃ楽しい訳がありません。
子供の野球、一番大事なのは 
【野球を好きにさせること】 【野球は楽しい】 と思わせる事だと思うのですがね。







2009年01月29日

駐車場係の思い出

過去を振り返る 『今だから言えること・・』

第3話 駐車場係の思い出



あれはゲンジが小学3年の秋でした。
地域で1番大きな大会が控えていました。

この大会は入場行進も盛大に行われる。
入団1年目の事でしたので、私も詳細はよく知らなかった。

中学の部。小学校高学年の部。低学年の部。
この3つでそれぞれ試合が行われる。

小3のゲンジは4年生と一緒にBチームでエントリー。
ただこの頃はまだ技術が未熟で、試合出場も少ない頃でした。
特にバッティングは三振ばかり続いていた頃 (-_-;)

この頃の思い出は、別カテゴリの『我が子レギュラー化計画・3年〜4年の頃』
http://syounenyakyu20.seesaa.net/category/235595-1.html
↑ に書き綴ってあります。


規模が大きい大会なので、開会式には各チームに色んな役割が求められた。
まずは塁審を2名出す。自チームの試合ではなく、他のチーム同士の試合を裁く。

そしてグランド整備係1名。出場チームが多いので、会場も当然複数になる。
それぞれの会場で朝1番に集合し、ライン引き等を行う。

そして開会式を行うメイン会場の駐車場係があった。

当日の朝はクルマで大混雑が予想されるので、その誘導と警備ですね。
上記の役割をチームから供出しなければならないので、
保護者会議が行われました。

当時は4年生が大勢いたので、当然これらの役割は4年生保護者が行うだろう。
そう勝手に思って臨んだ会議でしたが、目論見はハズレました ^_^;

なんだかんだと理由をつけて、これらの役割から逃げる人が多いんですよ・・
入団1年目の私に、半ば強制で駐車場係がまわってきたんです。

決まった以上は従うしかありません。
そして当日は開会式の3時間前に集合。早朝です。

息子が試合に出る可能性はほとんど無い。
ならばせめて開会式の晴れ姿である、入場行進だけは見届けたい。
そう思っていました。 

『式の前には駐車場係は終わるから、行進はちゃんと見れる』
こう事前に聞いていましたから、私も楽しみにしていたのですが・・

当日、私が割り振られた場所は一番遠い駐車場でした。
歩くとかなりの時間がかかるところでした。

こういう場合、クルマは会場から近い場所から埋まっていきます。
嫌な予感がしたのですが。。。

案の定、式が始まる時刻になってもクルマが入ってくる。
その場が満車になるか、或いは落ち着くまではその場から離れられない。

花火の音が聞こえた。『開会式を始めます』というアナウンスも聞こえた・・
焦りました。入場行進は低学年の部から始まる。

音楽が聞こえてくる。でもまだクルマは入ってくる・・
それから5分後、ようやく満車になった。
本部に携帯で連絡。『お疲れ様でした』 の言葉をもらった。

私は走りました。息が上がるほど全力で走りました。
ひたすら会場を目指して・・

間に合ってくれ! 心で叫びながら走った。
この距離がとてつもなく長く感じた・・

『○×少年野球・B』 うちのチームの名前が呼ばれた。
ダメだ間に合わない・・ それでも走った。

息を切らして球場の階段を駆け上った。
でも・・ 息子達は行進を終えて、中央で整列してました。

その場で座り込んでしまった私・・
以降の行進を、ただボンヤリ眺めてました。

裏方の役目も必要ですし、大事なので仕方ないのですが、
この時は無性に悲しいというか、虚しい気持ちでしたね。

この後は試合会場に移動。
そこでチームの保護者達と顔を合わせたのですが、
誰一人労いの言葉をかけるでもなく、わいわいと盛り上がってました。

『いい行進だったよね〜』 会議で役割から逃げていた連中の言葉です。
軽い殺意をおぼえましたね (^_^;) まぁそれは冗談ですが。

今となっては懐かしい思い出です^^





2009年01月22日

退団した選手の事

過去を振り返る 『今だから言えること・・』

第2話 退団した選手の事



あれはゲンジが5年生の時でした。
一つ上の学年の6年生は人数も多く、単独でAチームでした。

ゲンジ達5年生は、単独ではギリギリ人数が足りず、
一つ下の4年生達とBチームになる。

この年の新4年生、多くの入団がありました。
前年から参加していた選手を含めると、4年生だけで単独チームも作れるほど。

5年生と4年生で実力的に抜けていたのは6人。
残る3つのポジションは、他の5年生と4年生の争いでした。

こんな状態でしたので、チームはとても活気に満ちていました。
競争意識が働いて、選手達も上達に必死だったと思う。
3つの枠を巡り、監督も交互に試合出場の機会を与えていた。

しかし・・

残念ながら、力量が落ちてしまう4年生が2人いました。
二人とも代打でチャンスは貰ったのですが、
何度も三振で結果が残せませんでした。

無理もありません。基本が十分に出来ていないので、
まずはそこをしっかりと覚えないと、なかなか良い結果は出ないものです。

通常の練習日にこうした事をみっちりやりたいのですが、
よく練習を休むのです。。。。
そのくせ、試合の日は必ず来るんです (^_^.)

夏から秋に入ると、この2人はほとんど出場の機会がありませんでした。
他は熾烈なポジション争いを展開しており、
技術の差は益々開くばかり・・

そして相変わらず、練習参加率が低い・・ 悪循環ですね。
『コーチ 俺も試合に出たい・・』
私にこうポツリと呟きました。

『試合に出たいなら、まずは練習をしないと。 練習もしないで上手にはならないよ。』
私はこう言いました。

翌年、彼らは5年生に進級。チーム編成は前年と同じ。
しかし3年生が数人入部してきました。

この年は人数の関係で1チーム体制。
春先はこの3年生も試合に帯同していました。
ところが帯同しても、やる事は応援だけ。

出られる見込みの無い試合に連れていくより、
グランドに残って練習をさせたほうがいい。
そんな意見が出て、3年生専属コーチを設けて、彼らは別行動になった。

その時にチームの会長が・・
『5年生でも出られない子が二人いる。彼らも3年生と一緒に練習させてはどうだろう?』
私は賛成しました。

この時でも、まだボールを怖がったりしていた彼ら。
キャッチボールも満足に出来ない状態でした。
翌年は6年生。その時にレギュラーを取れるよう、
今からでも手を打たないと、そのままの状態で卒団になってしまう。

監督も同意見で、彼らは3年生と基本からやり直す事に決まった。
だが・・ ほどなく彼らは退団してしまいました。

戦力外通告ではなく、上達を願った上での決定でしたが、
プライドを傷付けてしまったのでしょうか・・

そこから這い上がるガッツを見せてほしかったのですが。
後から聞いた話ですが、彼らの父親もこの決定には立腹していたらしい。

しかし、あのままで彼らのためになったのでしょうか?
練習は休みが多く、試合の日は欠かさず来る。
帯同しても、出してあげる事も出来ないレベル。

もしこうした決定をせず、そのままにしていても、
彼らはそれで楽しかったのかなぁ?・・

実はゲンジが4年生の時にも、上の5年生を半分に分けて、
AチームとBチームに割り振った事がありました。
6年生が3人しかいない。という特殊な事情がそうさせたのです。

この時も波紋がありました。特にBチームになった父兄から・・
でもちょっと待ってほしい。
プライドやステイタスが優先で、実力はどうでもいいのか?

プレーする人数が限られてしまうのは、団体種目ならどれも同じ。
だからこそ、その枠に入れるよう努力しなければならない。

だが子供のスポーツでは、どうしてもシコリが残るのか?・・
チーム編成、メンバー分け。 難しいですね。





2008年12月16日

キャッチャー失格?

このブログで久しぶりに新しいカテゴリを作りました。
題して 過去を振り返る 『今だから言えること・・』

ブログを始めて3年と10ヶ月になります。
当時は色んな部分で書くの躊躇した事や、
書きたくても書けない出来事があったりしました。

でも時が過ぎれば、それも思い出の一つです。
今なら言える事 結構有るかもしれません。
今でも書けない事もありますが ^_^;

オフシーズンになり、ブログネタも少なくなっていますから、
この冬はこのカテゴリで乗り切りたいと思います^^


さて第1話は 『キャッチャー失格?』

あれはゲンジが中学2年の6月でした。
中体連が終わり、新チームが始動した頃。
中体連では3年生が正捕手でしたから、ゲンジはライトで先発フル出場。

新キャプテンに就任し、部活顧問からもクラブチームの監督からも、
ゲンジはキャッチャーとして起用される事を明言されていた。

守りの要のキャッチャー。加えてチームを引っ張るキャプテン。
私も親として気合が入りましたし、ゲンジにもアレコレと心構えなどを説いた。

学童時代は捕手以外のポジションは全て経験した。
中学入学直後、監督からその学年では捕手として育成すると告げられる。

これには色んな側面があるのですが、他に適当な人材が無かった・・
というのもあります。 体格面で小柄な子が多く、
エース候補の球を受ける選手が、ゲンジ以外には見当たりませんでした。

私も期待よりは不安が多かったですね。出来れば他のポジションが希望でした。
でもチーム事情もありますから、そうと決まれば実行するしかありません。

ただレギュラー捕手が上の学年にはいますので、
ゲンジも試合ではファーストがメイン。日々の練習では時折防具を装着して、捕手の練習もしていた。

初めて捕手として試合に出たのが中1の秋。練習試合でした。
ここから経験を積んで、少しづつステップアップを目指していた。

2年生に進級。ポジションはライトのレギュラー。
練習試合では2試合目にマスクを被るパターンが定着。

試合を通して勉強。こんな感じでした。色々と不備もありました。
リード、セカンド送球、まだまだ完璧ではありません。
でも顧問も監督もそれは承知。いきなり上手くなるはずもありませんから。


中体連の試合を負けた後、残念会がありました。
その席上で、部活の副顧問がこう言いました。

『新チーム、ゲンジはキャッチャーから外したほうがいい。』

部活は顧問と副顧問の2人体制。
実はこの副顧問、前年まで正顧問でした。

この年の4月に若い顧問が着任。これに伴い副顧問になったのです。
しかし年齢が上なので、まだ実権を握っているというか、
事実上は副顧問のほうが発言力が上。傀儡政権と言えるかもしれない。

『なぜゲンジを捕手から外すのですか?』 こんな声が当然上がる。

『ゲンジは捕手には不向き。今から1年生を据えて鍛えたほうがいい』

1年生に相応の実力がある捕手候補がいれば判るのですが、
1年生ではまだまだ。といった状況。
どんな部分が不向きなのか? 色々と持論を展開されていました。

これをうけてクラブの監督が言った。
『クラブの試合ではゲンジをメインの捕手で起用します。』
『1年生ではまだ役不足。育成してきたゲンジをここで外すのは、これまでの取組みが無意味になる。』

そして若手の顧問も続いた。
『まずは2年生中心でチーム作りをしたい。ゲンジには当然キャッチャーを任せるつもり。』

これまでポジションや打順など、アレコレと副顧問に指摘され、
それに従ってきた正顧問でしたが、ここでは屈せずに持論を述べた形。

私は敢えて口を挟まず、成り行きを見守った。
ただ監督と顧問が後ろ盾というか、擁護してくれた事は嬉しかった。
同時にその責任の重さも実感。

帰宅後、この話をゲンジにしました。

『副顧問を見返してやれ。練習を重ねて見返すしかない。』
『監督や正顧問の先生の意気を感じろ。期待に応えろ!』

選手の起用、指導者によって好みが違うのは分かります。
もしこの副顧問が正顧問だったら、中体連の試合では別のポジションだったかもしれません。

結果はどうなっていたか? それは分かりません。
別のポジションで花が開いていたかもしれませんし。

ただこの時はやはり悔しかったですね。
闘志に火がついた感じです。今から思えば、この出来事には感謝したい。

ゲンジもこれ以来、少しづつ進歩していきました。
3年生の時には副顧問も何も言わず、もうキャッチャーが当たり前の状況。
この経験で高校でもキャッチャーとして起用されている。

何がどう転ぶか? おかしなものですね^^




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