2005年06月01日

待望の初安打

前回の続きです。

2002年7月
 
姉妹都市の友好行事の一環で、少年野球交流試合が行われた。
当地の夏祭りに合わせ、市制○○周年のイベントも重なり、
多くの役所関連・観光関連の人が当地に招待された。
 
学校関連でも交流が盛んで、夏にはこちらが訪問して海水浴。
冬はあちらがスキーに訪れる。
こうした関係はとても良い事だが、今では政府の合併特例法による
市町村合併の推進で、姉妹都市関係そのものが継続困難になったのが残念だ。
 
 
当初はAチーム同士の対戦しか企画されていなかったが、
グランドを2面使う事で、Bチームの試合も実現した。
 
その第一試合で5番センターでスタメンの息子ゲンジ。
メンバーはほぼベストの布陣。
前年からここまでノーヒットの子がいきなり5番での起用だ。
これには皆も驚き、ドラ夫にも周囲の親の視線がつき刺さる。

ちなみに前年からの通産打撃成績は・・
 
15打数0安打 三振7
 
 
これでは皆が怪訝な顔をするのも頷ける。
しかし監督は、この所の練習で調子の良いゲンジに賭けたようだ。

 
試合が始まった。
 
先頭バッターがヒットで出塁。
2番はサードゴロだが2塁への送球がフィルダーチョイス。
3番フォアボールで無死満塁。
 
ここで4番は粘るも最後は見逃しの三振で1アウト。
ここでゲンジが打席に向かう。
 
初回から意気が上がるベンチとスタンドの応援団。
ドラ夫は心臓が破れそうな位に緊張した。
いきなり見せ場で息子の登場だ。しかもまだヒットを打った事が無い・・
 
そんな親を尻目にゲンジは落ち着いた様子。
 
初球はボール。2球目もボールでカウントは打者有利。
3球目はストライクを見逃し、4球目は空振り。
カウントは 2エンド2。
 
そして5球目。
 
渾身の当たりはセンターの頭上を大きく越えた!

次々と生還するランナー達。
ゲンジも必死の形相で3塁を回る!
最後は余裕でホームイン。
 
先制の満塁ホームランだ。
初めてのヒットがホームラン。5番起用に結果を出した!
驚きと喜びで湧き返るベンチ。

ドラ夫も感慨がひとしおだ。肩の荷が降りた感じだが、
ゲンジの勢いはこれだけでは済まなかった。
 
続きは後日。
 

2005年05月30日

復活への道

前回の続きです。

2002年7月
 
自宅練習を再開し、レギュラー定着に意欲を見せ始めた息子ゲンジ。
この時のメインは外野。外野守備には一定の評価を受けており、
課題は打撃と走塁だ。
 
打撃に関しては、自宅練習復活から多少の見通しがついてきた。
時々バッティングセンターにも連れていき、感覚も取り戻しつつある。
 
問題は走塁だ。
とにかく前年からヒットがなく、四球や敵失でも出塁した事が無い。
短距離走は並より速い部類だが、それと野球の走塁とは別物。
 
走塁は瞬時の状況判断がモノをいう。
判断の遅れが、一つ先の塁を奪うのに影響してしまう。
 
しかしこればかりは実戦を積まないと会得出来ないものもある。
アウトカウントが違えば変わってくるし、ベンチの作戦にも対応しなければならない。

チーム練習の時に、こうした事が出来なければ起用にも影響するから、
本番で恥をかかないためにも、自宅練習では念入りに基本を教えた。
 
そのチーム練習だが、フリー打撃では快音を飛ばすようになった。
監督からもその上達を指摘され、ゲンジも自信を持つようになる。
 
Aチームの一部の選手を交えて紅白戦をしたが、そこでも良い当たりを放っていた。
後は試合での結果を待つばかり。それ以前にスタメンを勝ち取るのが先決だが・・

 
そんな感じの2002年7月。
 
自治体の姉妹都市のチームが遠くはるばる来訪した。
様々なイベントが企画されていたが、その一つに少年野球の交流戦があった。
 
相手は2チームでこちらの自治体も2チーム。
他県のチームと2試合出来るのは絶好の機会だ。
またイベントの一環なので双方の役所関連や観光関連で観衆も多い。
 
その第一試合、ゲンジは5番センターでスタメンを言い渡された。
未だノーヒットの子供が5番!?
誰しもそう思っただろう。このドラ夫でさえそう思った。
 
しかしフタを開けてみたら、思いもよらぬ結果が飛び出した。
 
続きは後日。

2005年05月26日

再出発

前回の続きです。

2002年7月
 
チーム内の競争が激しくなり、次第に追い込まれた息子ゲンジ。
長らく中断していた自宅練習も、ゲンジ自らの意志で復活。
妻の理解も得られて、文字通りの再出発だ。
 
この時4年生のゲンジ。
同学年と、一つ下の3年生の布陣を整理すると・・
 
 
・A君 4年。前年の途中から入ったゲンジの最初のライバル。この時6番ショートで定位置確保。

・B君 4年。この時既に6年生並の体格。強肩だがプレーは雑。
 
・C君 4年。同じく6年生並の体格。おとなしい性格でルール曖昧。
 
・D君 4年。戦術眼はこの中で1番も、体格小柄で非力が難。
 
・E君 4年。自分から左打ちに転向した努力家。やはり小柄でパワー不足。
 
・F君 3年。体格小柄も闘争心旺盛のファイター。パンチ力有り。
 
・G君 3年。これまた小柄ながら走塁センスはピカイチ。肩が弱い。
 
・H君 3年。センス抜群。3拍子揃った好選手。

 
 

差し当たり、これがこの時のゲンジのライバルだ。
これに上の5年生の一部が加わり、ポジション競争の様相。
彼らの特徴を頭に入れつつ、ゲンジの弱点補強の対策を練る。
 
個人練習を復活させたとはいえ、それですぐに効果が出る程甘くはない。
どこから手をつけるかだが・・・
 
外野の守備では上記のライバルどころか、チーム内でも3本の指には入る。
ならば必然的に打撃向上が最優先課題だ。
ひたすらバットを握る練習をこなし、念願の初ヒットを成し遂げたい所。
 
ゲンジも以前のような弱気ではなく、意欲に燃えている。
かなりの手応えを感じていた。
 
続きは後日。

2005年05月23日

意識の変化

前回の続きです。
 
2002年6月
 
サッカーW杯の観戦後、電車を待つホームで
「どんな事でも、練習すれば上手になるかな?」とつぶやいた息子ゲンジ。
 
熱戦の余韻が残っているのか、いつもなら決して出てこない言葉だ。
ゲンジからそうした言葉が出て、ドラ夫はとても嬉しかった。

その話題をもう少し突っ込みたかったが、直後に電車が到着。
満員で会話を交わす余裕がない。
 
町田駅を過ぎたら多くの乗客が降り、ようやく座る事が出来るも、
ゲンジは座るなり眠りについた。試合が終わったのが夜の9時過ぎ。
疲れているのも無理はない。

途中の乗り換えを除き、ずっと寝ていたゲンジと、
その日は会話をする事なく自宅へ戻った。
 
翌日、仕事終えて帰宅するとゲンジが庭先でバットを振っていた。
その光景を見た時、なんとも言えない嬉しさと懐かしさが交錯した。
前年の気管支炎発病以来、半年振りに見る「個人練習」だ。
 
更に追い討ちをかけるように、帰宅したドラ夫に対して
「グランドに行って練習しようよ!」 
 
ずっとこの言葉を待っていた。妻との言い争いからここまでの四ヶ月間、
ゲンジ自らの この言葉を待っていた。
 
ドラ夫もヤボな事は聞かず、「よし行くか!」 と応じた。
 
ゲンジの中に、何らかの意識の変化が生まれた。
そのきっかけが何なのか? そんな事はどうでもよかった。
この時は、ただ素直に嬉しかった。
 
これ以降、徐々に快進撃が始まる事になる。
 
続きは後日。

2005年05月19日

勝負の世界

前回の続きです。

2002年6月
 
とうとう試合出場の機会まで減ってきた息子ゲンジ。
上を追い上げるどころか、下からの追い上げに迫られてきた。
 
打撃の低調は深刻で、前年の入団以来まだヒットが出ていない。
2試合の練習試合で、出番は代打の1打席のみ。
ドラ夫は込み上げる怒りの中でも、なんとか冷静さを維持していた。
 
ここでゲンジに怒りを向けるのは筋ではないと考えた。
問題は今後をどうするか?
前年のように、こちらの主導で個人練習を復活させるか、
それともゲンジ自らの奮起を待つのか?
 
親として、このままでは済ませたくない気持ちが強いが、
妻との考え方の違いや、当のゲンジの気持ちの部分で、
どうしたら最善なのかが見えてこない。
 
そんな感じで今後の方向性を思案していた2002年6月。
 
サッカー日韓ワールドカップで日本中が、いや世界中がサッカー熱で湧いていた頃、
ドラ夫親子もw杯の観戦の機会に恵まれた。
日本の試合は残念ながら抽選でハズレたが、第二希望の試合が運良く当選。
 
サウジアラビア vs アイルランド 場所は横浜国際競技場。
 
試合日は平日だったが、五輪と並ぶ世界的な大会を体験する機会は滅多にない。
学校を休ませて、遠く横浜まで出かけた。
 
自宅から関東の入り口までクルマで行き、そこから電車を乗り継いで横浜へ。
道中、ゲンジと様々な話をする事が出来たが、
少年野球の事は敢えて避けた。野球の事は忘れて、サッカーの事を中心に会話が弾む。

w杯のしくみや予選の事、ドーハの悲劇やジョホールバルでのイラン戦など、
過去の話を詳しく説明してやった。
w杯に出場するのはいかに困難か、代表落ちした中村選手の涙の事など、
「勝負の世界」の厳しさを、それとなく伝える。

「これから観る試合はお祭りではなく、国の威信を賭けた真剣勝負なんだよ」
ゲンジは眼を輝かせて聞き入っている。
 
会場に到着。同時多発テロの影響でスタジアム周辺は厳戒態勢。
加えて、初めて見る多くの外国人にゲンジも目をシロクロ。
 
試合は7万の大観衆の声援の中 始まる。
下馬評どおり、アイルランドの猛攻を必死で耐えるサウジ。
同じアジアのサウジを応援していたドラ夫親子。
 
しかし観衆の8割はアイルランドサポーター。
ゲンジもすっかり試合の中に入り込んでいた。
 
試合はアイルランドの勝利で終わる。
競技場から駅へ歩く時、すっかり興奮したゲンジがご機嫌でアレコレと喋っている。
駅のホームでゲンジが言った。
 
「どんな事でも、練習すれば上手になるかな?」
 
続きは後日。

2005年05月16日

どん底

前回の続きです。

2002年6月
 
塁審参加の名目で、久しぶりに少年野球に関わった。
息子ゲンジも初のセカンドを無難にこなすも、
新加入のメンバーの追い上げが顕著。
 
前年のメンバーから数人がAチームに合流し、代わりに新メンバーが入ったのがこの時のチーム構成。
これでいくとチーム内の勢力図にも変化があるのが当然で、
順調ならゲンジも8番目〜12番目辺りを維持していなければならない。
 
ところが気管支炎による出遅れに加え、個人練習の中止。
更には 新メンバーの意外な追い上げに前述の圏内も危うい状況。
 
こうした状況にドラ夫も焦るが、前年の時のように個人練習を強いる気は無かった。
あくまでも、ゲンジ自身の意識の変化を待つ事に変わりはない。
週末の練習にも顔は出さないので、新選手の実力も測れないし、
とにかく、あまり息子の成績に敏感にはならないよう、意識して努めた。
 
そして次の練習試合の日。
 
塁審予定だった人に急用が出来、ドラ夫にその代役の依頼が舞い込む。
こちらに予定は入っていなかったので快諾し、試合会場へ足を運ぶ。
 
この日は3チーム総当りの練習試合。2試合をこなす予定だ。
最初の試合、ゲンジはスタメンを外れる。ほぼベストメンバーに近い布陣。
途中、数人の選手交代があるが、結局ゲンジはベンチのまま試合を終える。
 
続く2試合目。
今度はメンバーを大幅に入れ替え、新メンバー全員が守備についている。
ところが、ゲンジはまたしてもベンチスタート・・・
 
監督の意図が判らないが、さすがにこの時はショックで、
やり場の無い怒りが込み上げて、それを抑えるのに必死だった。
同時にこの時のゲンジの胸中が気になる。
 
「ゲンジよ、これで燃えなければ男じゃないぞ!」
と心で叫ばずにはいられない。
1つ下の学年の子がスタメンなのだ。しかもそれが一人ではない。

冷静に考えれば、この試合はテストの意味合いが強く、実際に主力選手も
ベンチに退いている。ゲンジが前の試合にスタメンなら、こうした考えも浮かぶだろうが、
2試合続けてのスタメン落ち + 新メンバーのスタメン抜擢(全員)
という状況にでは、冷静になれと言うほうが無理かもしれない。
 
試合は最終回の攻撃で2アウト。ここでこの日初めてゲンジが試合に登場。
代打での起用だ。「ヒットを打って、皆を見返してやれ!」と小さく呟くドラ夫。

ところが結果は空振りの三振・・・
 
こうしてゲンジはチーム内でも危機的状況に追い込まれた。
そしてドラ夫も、地の底から沸き起こる怒りと悔しさに見舞われていた。
 
続きは後日。

2005年05月12日

元の木阿弥

前回の続きです。

2002年5月
 
初めてのセカンドを無難にこなした息子ゲンジ。
しかしこの日も打撃は低空飛行。
 
相手はバリバリのAチームだから、この時4年生のゲンジにすれば、
いつもの投手よりはレベルが高い。しかし、それを差し引いても
気力の見えないバッティングだった。
 
最初の打席はフルカウントから見逃しの三振。
しかも一度もバットを振らず・・・
 
前年の三振街道驀進中の状態に逆戻りだ。
あの時は個人練習でバッティングセンターに通い、
その後は三振も無くなり、凡退ながら強い当たりが続いた。
 
しかし気管支炎を患った後は、家で素振りどころか、バットすら握らない。
そんな状態で好調をキープ出切るはずもなく、すっかり元の木阿弥になっている。
 
2回目の打席は自分に回ってくる事なくゲームセット。
4・5年生のBチームでは実力差に開きがあったようで、大差での完敗。
 
そんな中、この年から入った同級生が代打でクリーンヒットを放つ。
今年2本目のよう。ゲンジにとっては逆風だ。更に・・
1つ下の3年生の1人も、ヒットにはならなかったが痛烈な当たりを打っている。
 
こうした現実をゲンジはどう捉えていたのか?
 
「ゲンジよ、どうする? 追い込まれたぞ・・」
心の中でドラ夫はつぶやく。
 
そして次の練習試合には、不安は現実のものとなってしまった。
 
続きは後日。

2005年05月09日

無難に終わった内野デビュー

前回の続きです。

2002年5月
 
Bチームながら主要大会にエントリーした我がチーム。
新監督は内野未経験のゲンジをいきなりセカンドでスタメン起用。
 
塁審として試合に帯同したドラ夫。
セカンドの心得等をゲンジにアドバイスしたいが、
自チームの前の試合に塁審を担当するので、アドバイスの時間がない。
 
それにしても何故セカンドなのか?・・
もともとセカンドの子はショートに。ショートの子がサードへ。
サードの子がセンター。という変更。
 
これならはじめからゲンジが本職のセンターに入れば、ポジションを
動かす必要はないのだが・・・
 
塁審デビューを無難にこなしたドラ夫。
入れ代わりににゲンジが道具を持ってベンチに入ってきた。
 
「盗塁の時、ショートとお前とどちらがベースに入るか確認したか?」
と声をかけた。
 
「うん、一応サインで決めてある。」
とゲンジの返答。
 
これで少しはドラ夫も落ち着いたが、それにしても思い切りのよい采配だ。
 
試合開始。先頭バッターの初球にいきなりセカンドにボールが来る。
ワンバウンドでがっちり捕球しファーストへ。まずは一安心。
以後、この試合は幾つか守備機会があるものの、大きなミスがなく、
セカンドデビューは無難に終わった。
 
ところが・・・
 
サードからセンターにコンバートされた子が全く外野守備が出来ない。
後で聞いた話だが、その子は足も速く、肩も強いので
外野の適性を試すつもりだった模様。
 
こうした関係でゲンジはまた外野へ戻る事になるのだが、
定位地確保にまでは至らない。
それはバッティング状態が・・・
 
この試合も打撃は目を覆いたくなるような状態だった。
 
続きは後日。

2005年05月06日

いきなりセカンド

前回の続きです。

2002年5月
 
自宅での個人練習を止めて、ドラ夫もあれこれ口を挟まないようにしてから
三ヶ月が過ぎた。それでも週末のチーム練習には積極的に参加する息子ゲンジ。
 
ここで地域では比較的大きな大会にエントリーの話が舞い込む。
元々Aチームは参加予定だったが、ある学校が棄権したため、
その代わりにうちのBチームへ参加の打診があったもの。
 
他は全てAチームが参加してくるので、うちのBでは勝敗は結している。
それでも経験を積むには良い機会。との事でA・B揃って参加する事になった。
 
少年野球は塁審を父兄が勤めることが多い。
前年までのドラ夫は3年生の保護者という事もあり、
塁審は一度も依頼は受けなかっが、この年は息子も4年生という事もあって、
そうした協力を求められるのも多くなった。
 
前述の大会でも早速塁審を打診された。
少年野球との関わりを絶つ。と妻に宣言したものの、
野球のルールがイマイチの妻に塁審は勤まらない。
必然的にドラ夫が参加するしかなくなった。
 
内心は公の理由で観戦に行ける嬉しさもあった。
まだまだ少年野球には未練があったのですね。
 
大会当日、選手起用で皆が驚く出来事があった。
ゲンジをいきなりセカンドでスタメンと発表。
これにはドラ夫も驚きを超えて呆れた・・
 
昨年までは外野しか守った事はなく、いきなり内野は無謀ではないか?
それを新監督に指摘するも、どうやら何か試してみたいフォーメーションがあり、
その1つがこの日の布陣だったようだ。
 
「こんな事が分かっていたら、自宅でゴロ取りのノックをしたのに・・」
とドラ夫も不安が増す。
当のゲンジは緊張した気持ちはなく、リラックスそのもの。
事の重大さに気付いてないのか、神経が図太いのか?
 
続きは後日。

2005年05月02日

出遅れ

前回の続きです。

2002年4月
 
新加入のメンバーが続々ヒットを打っている。
チーム全体を考えた場合、それは喜ばしい事ではあるが、
息子ゲンジが先を越されたと思うと素直には喜べない・・
 
最初の試合はノーヒットに終り、続いて2試合目。
レフトでスタメンに入るも、第一打席で凡退し、
次の回からベンチへ退く。
 
新監督は2試合で全ての選手を起用した。
野球を全く知らない3年生にも出場の機会を与える。
昨年までの監督とは方針が違う。
思えば昨年のゲンジの初出場は夏だった。
 
皆を試合に出す事で、それぞれの適性を見極めたのかもしれない。
そういった意味では、勝ち負けを度外視した練習試合だった。
実際、次の公式戦では あっと驚く選手起用があった。
それは次回に譲るとして、ヒットの出ないゲンジだが・・
 
その日の試合をドラ夫が、遠くから観戦していた事をゲンジは知らない。
こちらも何事も無かったの如く振る舞っていた。
以前なら、結果に対して親子でアレコレ反省をしたものだが、
「野球から手を引く」 という言葉を発したからには、
こちらからは何も言えない。
 
本人は新メンバーにヒットが出た事に危機感はあるのか?
ドラ夫は十分に危機感を抱いていたが・・
 
チーム練習だけでそれなりに上達し、結果が伴えば申し分ないが
残念ながらこの時のゲンジにはそんな実力は無かった。
 
昨年は親の方から尻を叩いて始めた個人練習。
今年はこのまま個人練習無しで終わるのか?
 
続きは後日。

2005年04月28日

1からのスタート

前回の続きです。

2002年4月
 
新メンバー・新監督で4年生の野球生活が始まった息子ゲンジ
前シーズンの夏以降はそれなりに存在感を示したが、
病によるブランクでの出遅れが気がかり。
加えて個人練習を止めてしまっていたから、技術進歩は停滞か?
 
妻との野球に対する対立から、少年野球から手を引いて一ヶ月半が過ぎた時、
最初の練習試合が組まれた。観戦に行きたいのは山々だが、
手を引いた と宣言したからにはそれも出来ない。
 
そんなドラ夫の心中を察したのか、妻が言った。
「応援に行きたいんでしょ? 行ってこれば?」
 
しかし変な意地を張ってしまい、そうした言葉にも素直になれない。

妻が続けて言う。
「もう意地を張るの止めて。私が悪かったよ。ゴメン・・」
  
こんな感じでしばらく話を続けた。取り敢えずその日は、
ゲンジには見えない遠くの場所から観戦する事になった。
 
その日は2試合の予定。最初の試合はスタメンでレフトを守っていた。
この日はベンチ入り全員を起用する方針なのか、途中でメンバーが
どんどん入れ代わる。
 
入ったばかりの3・4年生も試合に出ていた。これが新監督のやり方なのだろう。
その新メンバーが打席でヒットを打った。
ゲンジは今だノーヒット。1年長く野球をしているが、初安打は早くも先を越される。
 
もう1人の新メンバーもヒット!
 
「このままではマジでヤバイな・・・」
 
強烈な危機感が身体全体に走った。
 
続きは後日。

2005年04月25日

4年生へ進級

前回の続きです。

2002年4月
 
サッカー・W杯の開催を控え、日本中がサッカー熱に沸いていた2002年に
息子ゲンジは4年生になった。
 
この年のチームもA・Bの2チーム体制。
6年生の人数がギリギリで、5年生の一部をAに引き上げ、
残りの5年生と4年・3年でBチームとなる。
 
ゲンジの同学年も新たに4人が入団。3年生も2人入り、
5年生もこの年から入団した子が2人いた。
昨年までの監督はAチームの担当となり、
Bチームは新しい監督が就任した。
 
メンバー・指導陣共に新しい顔合わせでのスタート。
ポジションも一旦白紙に戻り、適性の見極めが行われた。
 
息子ゲンジは相変わらずのマイペース。
自宅では素振り1つしない有様で、レギュラー獲得の強い意欲は感じられない。
 
妻との意見の喰い違いから、少年野球への関わりを絶ったドラ夫。
もどかしい思いを感じながらも、ゲンジの頑張りに期待を抱く。
 
前年の個人練習から多少の手応えもあったのだが、
いかんせん冬のブランクが長過ぎた。加えて新メンバーの加入に、
監督の交代というのが重なり、練習に顔を出せないドラ夫は
状況を把握する事も出来ない。
 
本音は関わりたいのだが、言い出した手前、それも出来ない。
 
4月の中旬、練習試合が組まれた。
ゲンジはスタメンかベンチか?
 
続きは後日。

2005年04月22日

淋しい週末

前回の続きです。

2002年3月
 
少年野球に対する取り組みに、妻との温度差がハッキリした我が家。
息子ゲンジにポジション奪取を! と意気込むドラ夫と、
その姿勢に疑問を投げかけた、妻との考え方の相違。
 
それに加えて消極的な気持ちのままの息子を見るにつけ、
ドラ夫は少年野球との関わりを絶つ決心をした。
 
この時点でゲンジの気持ちは妻の影響のほうを受けており、
どちらかが折れなければ方針も定まらないので、
ドラ夫が手を引いた形で落ち着いた。
 
ゲンジは結局2月末まで練習は休み、3月初旬から練習に参加した。
気管支炎を患ってから3ヶ月半ぶりの合流になる。
 
野球との関わりは無くなったものの、父親としての責務は放棄していない。
現場に顔を出すのを控えるのと、自宅練習を止めただけで、
ゲンジのチーム内での動向は気にしていたし、話も聞いたりはしていた。

ゲンジが入団してからは、自然と休日の過ごし方も変わっていった。 
前年までは時間の都合がつく限り、極力練習には顔を出していたが、
これからそれが出来ないと思うと、なんとなく複雑な心境・・
 
「もう早起きしないで ゆっくり眠れる」という嬉しさより、
息子不在の週末を迎える淋しさのほうが強かった。
 
こうして小学3年は終りを迎え、翌月からは新体制・新メンバーでの
小学4年の少年野球生活がスタートしました。
 
続きは後日。

2005年04月20日

少年野球から手を引く

前回の続きです。
 
2002年2月
 
「よし判った。嫌な事を無理してやる必要はない。野球が嫌なら辞めろ。
これから退団の話をしてきてやるから。」
 
これは脅しで言った言葉ではなく、ドラ夫の本心でした。
人には向き・不向き があります。不向きであったにしても、
熱意があれば続ける価値はあります。逆に言えば、
向いていても、熱意が無ければ意味がありません。
 
息子ゲンジの態度は明らかに「熱意」がなく、
このままダラダラと続けさせても、本人に苦痛を与えるのでは?
と思い、この時はチームを退団させるつもりでした。
  
「アンタの言う事は極端すぎるんだよ! 私は辞めさせないからね!」
また妻が口をはさみます。
 
妻の言い分をまとめると、
 
1.折角 始めた野球は辞めさせたくない。
2.チーム練習をマジメにやれば、自宅の練習は必要ない。
3.それでゲンジがレギュラーを獲れなくても構わない。
 
これはドラ夫の方針とはかなり隔たりがあります。
3の部分はとても受け入れる事が出来ないものです。
ゲンジはどう思っているのか?
 
本人も辞めるのには抵抗があるようだ。
ただ、今は行きたくないという心境らしい。
ハッキリしない態度で煮え切らない。
 
そこでドラ夫は妻とゲンジに言いました。
 
「判った。それならお前達の勝手にしてくれ。
俺は少年野球から手を引く。練習の手伝いにも行かないし、
勿論、自宅練習もやらない。」
 
続きは後日。

2005年04月18日

退団の危機

前回の続きです。

2002年2月
 
約一ヶ月半の病気療養にも回復の目途がついた頃、
息子ゲンジに個人練習の再開を打診したが、
本人は消極的な姿勢・・・
 
休みグセがついているのかと思い、しばらくは様子を見る事に。
数日後、改めて練習再開を提案したが、ここでも明確な返答が返ってこない。
この時が真冬という事もあり、治ったばかりの身体がまた悪化しても困るので、
チームが活動再開する2月上旬までは息子を自由にさせる事にした。
 
本来なら、この自主トレ期間こそ弱点を克服するよい機会なのだが、
病み上がりという事もあり、思い描いていた練習プランが大きく狂う。
それ以前に、ゲンジのモチベーションが下がっているのも気懸かりだった。
 
そして2月最初の土曜の朝。チームの練習始めの日を迎えた。
厳しい寒さと大量の雪の為、外での練習は出来ず、室内での練習だ。
 
前年は病気のために中途半端に終わっているから、
この初日は元気な姿を皆に見せるつもりだった。ところが・・
 
「寒いから練習に行くのは3月からでいいんじゃない?」
と、妻が口をはさむ。

「そんな甘い考えでどうする! 今年はポジション定着に重要な年なんだぞ!」
とドラ夫が言い返す。
 
「そんなに張り切って何考えてんの!? 雪がなくなってからでいいんんだよ!」
と妻も応戦。
 
「バカ! その間に他の子に抜かれたら、今までの苦労が台無しだぞ!」
 
とこんな感じで妻と言い争いが続いた。
妻は勝負に対する執着がまるで無く、ゲンジが負けても構わない考え。
ドラ夫は、やるからには最善を尽くすのが当然。との思いが強く、両者の主張は平行線のまま。
 それを傍目で見ていたゲンジに決めさせる事になった。
 
「今日、練習に行くか、行かないかどっちだ?」
 
散々迷った末の返答は、「今日は行きたくない・・・」

 
ドラ夫はブチ切れた。
 
「よし判った。嫌な事を無理してやる必要はない。野球が嫌なら辞めろ。
これから退団の話をしてきてやるから。」
 
続きは後日。

2005年04月14日

衰えた気力

前回の続きです。

 
2002年1月
 
気管支炎を患った息子ゲンジ。
その影響でチームより途中から離脱。
チームも12月初旬から活動を一時休止して、冬を迎えた。
 
療養中はもちろん個人練習はお休み。
同級生の入団から始まった個人練習。
地道に続けたおかげで、最初は外野守備。
次にバッティングと、課題をクリアしていった。
 
目標に向かって努力させ、結果が伴った時の喜びを
ゲンジに体験させられた事は、子供にとってもよい経験になったでしょう。
これだけでも、少年野球に入れてよかった と思えます。
 
この時点でまだ3年生。
野球に関しては、まだまだやるべき事が多くあり、
更なるステップアップを! と考えていた矢先の息子の病気。
 
思えばここまでの数ヶ月間、仕事をやり繰りして早く自宅に戻り、
自分の趣味の時間を削ってまで、息子の野球に没頭していた。
それが1番の楽しみになっていました。
 
自分の自己満足で息子に野球を強要していたのか?
今のやり方は間違っているのか?
そしてなにより、当のゲンジが野球を本当に愛しているのか?
などと自問自答したり、妻からも自宅練習については小言を言われたり・・
 
息子が療養中に色んな事が頭をよぎりました。
 
年が明けた2002年の正月。ゲンジもようやく回復した頃。
ずっと運動を禁止されていたのに慣れてしまったのか、
「少しづつ個人練習を再開していこうか?」 の問いかけにゲンジは、

「もうやりたくない・・・」
 
続きは後日。
 


2005年04月12日

突然の病

前回の続きです。

2001年11月
 
当地は冬の訪れが早く、10月下旬に雪が降るのも珍しくない。
少年野球の行事もそうした事情に関連して、遅くとも11月中旬には
試合の日程は組まれない。
 
この時 小学3年の息子ゲンジ。
最初の半年はまだ未熟で試合にも出られなかったが、
途中から始めた自宅練習の結果が少しづつ出始めて、
夏以降は試合起用も増えてきた。
 
そんな感じで迎えた11月初旬。
残りの試合も僅かになってきた。
なんとか初安打を記録してほしいと願っていたが・・・
 
当のゲンジが気管支炎を患ってしまった。
最初は単なる風邪だと楽観したのがマズかったようで、
気付いた時にはかなり進行してしまった。
 
妻がドラ夫に愚痴をこぼす。
「まだ小さいんだから、夕方の個人練習なんて止めたら?
そうした無理がたたって、こんな事になったんだよ!」
 
学校も長期にわたって欠席となり、野球どころではなくなってしまう。
チームは毎年、12月から2月初旬までは活動を休止。

12月には病もなんとか回復したが、しばらくは運動禁止。と医師より言われ、
結局ゲンジは、納会の親子野球にも参加する事が出来ずに
最初のシーズンを終了。なんとなく後味が悪い終わり方になってしまった。
 
良くも悪くも、少年野球にのめり込んでいたこの数か月。
練習を重ねて、結果を徐々に出していく喜びを体験出来て、それなりに有意義だったが、
病気の息子を見ると、少し厳しすぎたかな? と考えたりしたり・・
 
活動再開の2月に向けて調整する意欲も薄れてしまった。
 
続きは後日。
 


 

2005年04月10日

不運続き

前回の続きです。
 
2001年10月
 
連続三振を6で止めた息子ゲンジ。
しかし8打席連続凡退中で、まだ初ヒットは飛び出さない。
 
自宅での打撃練習が実を結んだのか、手応えを感じていて、
ヒットが出るのも時間の問題だと思っていた。
 
秋も深まりつつある時期で、残り試合も少なくなってきた頃だ。
2試合程、出場の機会に恵まれなかったが、
その次の試合は9番・センターで出番が巡ってきた。
 
最初の打席はサードライナーに倒れる。
良い当たりだったが相手の正面なのが残念。
 
第二打席はフルカウントからファールで3球粘り、
最後はまたもやサードライナー・・・
 
これで今度は前試合から4打席連続、ヒット性の当たりが
相手の正面に飛ぶ不運が重なった。
 
当の本人は落ち込んだ様子はなくケロッとしていたが、
ドラ夫は相当凹みました。
 
ゲンジはヒットという結果よりも、良い当たりを放っている事に
満足しているようだが、ドラ夫は早く初ヒットを達成させたかった。
 
これで10打数ノーヒット。次に頭を切り替えるよう努めたが、
それより重大な事が起きてしまった・・・
 
続きは後日。

2005年04月07日

次の目標は初ヒット

前回の続きです。

2001年10月
 
7打席目にして、やっと連続三振から抜け出した息子ゲンジ。
初めてバットに当たった球はサードゴロ。
それでもドラ夫はひとまず満足。
 
いくら守備が水準並でも、打撃がオール三振ではチャンスは来ない。
集中的に打撃練習に取り組み、なんとか空振り病は脱した感がした。
それ位、個人練習では手応えを感じていた。
 
その試合、ゲーム展開が点の奪い合いで、ラストバッターのゲンジに
3回目の打席がまわってきた。
 
前打席のサードゴロがマグレだと思われないためにも、
ここは三振は避けてほしいと願う。
 
2アウトランナーが2・3塁の場面。
ここでゲンジは初球を叩く!
痛烈な当たりだったが結果はピッチャーライナー。
 
抜けていればタイムリーだったが残念。
 
試合終了後に監督がドラ夫に言った。
「三振から抜けたと思ったら、2つ続けて痛烈な当たり。
あの当たりはキチンと捕えていたぞ。何か特訓したのか?(笑)」
 
こうなれば次の目標は初ヒットだ。
次の試合にでも達成出切るだろう。と楽観したのだが・・・
この目標達成が、まさか翌年にまでズレこむ事になろうとは、
ドラ夫も思いもよらなかった。
 
続きは後日。

2005年04月04日

嬉しかったサードゴロ

前回の続きです。

2001年10月
 
集中的に打撃練習に取り組んだ息子ゲンジ。
代打でのデビュー戦から、2試合スタメンの5打席で
オール三振中。しかもバットにカスリもしない。
 
ある程度はバットに当てる目星がついたと思うが、
今度は試合に起用される機会が減った。

上の4年生の一部に競争心の火がついたのか、
3年生のゲンジにポジションを獲られた選手が巻き返してきた。
 
ゲンジも途中出場の守備固めのような起用が続き、
なかなか打席に立つチャンスが訪れない。
 
そんな状態が続いた10月、久しぶりにゲンジに
スタメンの機会が巡ってきた。
前週の試合で外野陣の守備の乱れが目立ち、
守備の堅実なゲンジに白羽の矢が来た感じだ。
 
打順は9番。ポジションはセンター
 
最初の打席、オール空振りでまたもや三振・・・
これで6打席連続三振だ。
今回は密かに期待していたのだが・・
 
「次の打席は交代だろうな・・」とドラ夫も落ち込む。
 
しかし監督は2打席目もゲンジを打席に送った。
とにかく三振だけは勘弁してくれ。と祈ってしまう。
 
カウントは2ボール後に空振り2つ。
そして5球目。
 
カキン! と鋭い打球がサードへ。
当たりは良かったが相手の正面でアウト。
 
しかしやっと三振のトンネルを抜ける事が出来た。
このサードゴロは、ある意味でとても印象に残っています。
そして嬉しかった。凡退して嬉しかったのはこの時だけだと思います。
 
続きは後日。

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